こんにちは、イバスタです。
先日、抜歯のために全身麻酔を受けました。
医療としては一般的な処置ですし、患者さんも日常的に入院されます。
今回はその患者が私になりました。
私にとって今回の全身麻酔が想像以上に強烈な体験であり、考え方が大きく変わるきっかけになりました。
今回は、その経験を記録として共有します
「気づいたら終わっていた」——。
多くの患者さん、入院前に看護師さんや麻酔科医から聞いた言葉です。
術後に目覚めた患者さんからよく聞こう言葉です。
しかし実際に体験すると、その“気づかなさ”は、想像以上に不思議で、少し怖くて、そして心に残りました。
私たちは毎日眠ります。眠る前には準備(さあ寝ようと思ったり)があり、目が覚めたときも同じ場所にいる。
だから当たり前のことと思います。
ところが、全身麻酔はその感覚がまるで違いました。
そして繰り返しますが、その経験は、人生観にまで影響するほどの出来事でした。
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意識がぶつ切りにされる」感覚
手術室へ移動し、看護師さんや担当医、麻酔科医の方に挨拶をして、手術台に横になりました。マスクを着けて呼吸をしていると、「眠くなりますよ」と声をかけられます。
その次の瞬間、私はベッドの上で布団をかけられて目を覚ましていました。
直前まで、未知の麻酔に対する不安で心臓が速く打っていたはずなのに、目が覚めたときには鼓動は落ち着いていて、場所も状況も変わっている。
「どうやって移動したのか」「いつ終わったのか」がまったく分からない。
気持ちよく眠れた、という感覚すらありません。
ただ、時間と意識が突然切断されたような感覚だけはっきりと分かりました。
寝るときの“うとうと”や“入眠の感覚”とは違い、連続性がごっそり抜け落ちる。自分の意思や努力とは無関係に、意識がオフになり、気づけば環境が変わっている。
この非日常な体験は、私にとって初めてで、言葉にしがたい衝撃でした。
終わりは、痛みではなく“認識が消えること”に近いのかもしれない
もちろん、私は死を直接経験したわけではありません。
あくまで医療としての全身麻酔で、目が覚めて、日常へ戻ってきています。
それでも今回の体験を通して、「今この瞬間を当たり前に認識している状態」が、自分の意思とは関係なく、すっと途切れることがあるのだと実感しました。
私たちが普段抱える不安や恐怖は、脳が作り出しているものだと言われます。
今回の経験は、そのことを“理屈として”ではなく、“感覚として”理解するきっかけになりました。
もし意識が途切れてしまえば、肩書きも、評価も、収入も、名声も、思い出も、すべて「本人にとっては意味を持たないもの」になります。
家族のことさえ、こちらが認識できなければ、概念ごと消えてしまう。
そう考えると、普段必死に守ろうとしている「社会的な立ち位置」や「こうあるべき自分」が、少し遠いものに感じられました。
大切にすること自体を否定したいわけではありません。否定する必要が全くないですし、それぞれが大事にしたいものがあれば大事にすれば良いと思います。
ただ、そこに振り回されすぎる必要はないのだと感じたのです。
術後に看護師さんへ伺うと、使用した麻酔薬はプロポフォールだったそうです。
私の職場での採用されていますし、私自身もこの薬剤は補充などで触れておりますし、多くの病院で手術に日常的に使われる麻酔薬です。
だからこそ余計に、「人の意識はこんなふうに静かに途切れることがあるのか」と思わされました。
経験後に起きた気持ちの変化
この体験は、私の中にいくつかの変化を生みました。
まず、以前よりも物事に焦らなくなりました。
恐らく私の中での最悪を経験したのでしょう。
人から何を言われても、それは外部から入ってくる情報の一つに過ぎない。
最終的に自分がどう受け止めるかを決めるのは自分で、必要以上に怯えることはない。
そう思えるようになりました。もちろん完璧ではないですよ。ドライになったというか、悟ったというかそのような感覚です。
次に、「不安や恐怖」を少し細かく見るようになりました。
不安は、頭の中で膨らむほど大きくなります。
でも分解してみると、実際には起こらないことも多い。
起こった瞬間には、逆に“恐怖を考え続ける余裕”が消えていることもあります。
だからこそ、日常の中で不安に飲まれ続けるより、「今できる行動」に意識を戻したり、その恐怖はどこから来ているものか向き合うことで心が落ち着く気がしました。
そしてもう一つ。
「どう生きてもいい」という感覚が、少し強くなりました。
もちろん、誰かを傷つけたり、迷惑をかけていいという話ではありません。
ただ、他人の目や固定観念で自分を縛りすぎず、自分の人生を自分で選ぶ余地があるのだと感じました。
だからこそ「丁寧に生きたい」と思った
一方で、逆に強く感じたこともあります。
私は今39歳です。
仮に80歳まで生きるとすれば残り41年ですかね。
すでに折り返し地点に立っています。
子どもが生まれてから、時間の流れは驚くほど速くなりました。これからさらに加速するのだろうと思います。
今回の体験を通して、「終わり」は意外と静かに、気づかない形で近づくことがあるのかもしれない、と感じました。
重い病気のときだけが“突然”ではない。麻酔や鎮静が入れば、本人の意思とは関係なく、意識は途切れる。
そう考えると、私たちにとっての“最後の瞬間”は、思っているより「気づきにくいもの」なのかもしれません。
だからこそ、残りの人生を丁寧に生きたい。
丁寧とは、所作や言葉遣いだけではありません。仕事への向き合い方、日々の選択、目の前の時間の扱い方——「今」を噛みしめる姿勢そのものだと思います。
荒く、雑に生きるのは誰にでもできます。
でも丁寧に生きると、同じ一日でも密度が変わり、生への感謝が深まる気がします。
成功してもしなくても、最後は誰にとっても等しく“認識が途切れる瞬間”が来る。
だからこそ、その過程は自分で選んでいい。
私はそう考えるようになりました。
最後に
病気で苦しんでいる人、悩みの中にいる人に対して、「気にしなくていい」と簡単に言いたいわけではありません。
長く戦って、苦しんでいる方がいます。その方々を「気にしなくていい」なんて言葉で片付けていいはずがありません。
早く楽になりたい、そう思っている方はそこに至るまで長く辛い思いをされている訳ですから。
痛みや苦しみは現実として重いものです。
それでも、どれほどの成功も失敗も、最終的には同じ地点に向かう。私自身も例外ではありません。
だからこそ私は、今を丁寧に生きたいと思っています。
丁寧に生きるというのは、難しいことではなく、少しゆっくり物事に丁寧に向き合ったり、耳を傾けてゆっくり音や話を聞いたりそういうこと。一つ一つのことに時間や目を向けてみようと思った次第です。
最後まで読んで頂きありがとうございます。

